山古志住民会議主催の復興の集いでの挨拶を全文掲載します


20151026yamakoshi_aisatu 10月23日、中越地震から11年目にあたるこの日、山古志住民会議の主催による「復興の集い」が開催されました。
話し始めると11年間の思い出がよみがえってきて、私の心のまま、原稿なしでお話ししました。
「続き」に、その全文を掲載します。

ただいまご紹介にありました“ご来賓”という言葉でありますが、私は本日、来賓として出席させていただいているつもりはございません。
11年前の震災発生直後、当時の長島村長が長岡市役所に訪ねてこられ、全村避難の決断の経緯と住民の皆さんの受け入れを要請されました。
私が皆さんの受け入れの決断をしたことを評価してくださる方がいらっしゃいますが、その時点で合併はすでに決まっておりました。ですから、いずれ一緒になる“長岡市民”を受け入れるのだから、これは私の本来の仕事だという気持ちでありました。ですから、受け入れを感謝していただくことには、とても面映ゆい気持ちがいたします。また、山古志の皆さんをふるさとに帰れるようにすることが私の仕事であるという思いは、今も変わらず続いております。

正直に申し上げまして、ヘリコプターで山古志小中学校に降り、木籠の状況をはじめがけ崩れの状況を見たとき、帰村は難しいのではなかろうかと思いました。その後、復旧・復興に追われる日々が続きましたが、非常に厳しくつらい状況もありました。今だから申し上げますが、「何でこんな目に合うのだろう。」と、おもわず愚痴がでたこともありました。
しかし、住民の皆さんが示した強い忍耐力、また、仮設住宅の近くに畑を作ったときの笑顔に、「頑張らないといけない」と励まされました。さらには、復興住宅が完成したとき、闘牛場が完成したときの皆さんの笑顔、また、トンネルが開通した際に歌を歌いながら通ってくださった姿など、そのときどきの住民の皆さんの底抜けに明るい笑顔が今でも目に焼き付いております。また、本日もお越しいただいおりますが、応援に来ていただいた皆さんの温かいお姿を拝見して感激しました。励まされたのはむしろ私だったのであります。
今思い返しますと、本日お集まりの皆さんから、長岡市長として、ここまで育てていただいたのだと強く感じております。山古志住民会議の皆さんが私を「来賓」と言っていただくのは本当にありがたいことではありますが、私は、皆さんと一緒にここまで歩んできた同志であるという思いが強いのであります。

あれから11年が経過しました。これからの10年、さまざまな課題があることは承知しておりますが、一つひとつ解決しながら、次のステージに向かって、これまでの経験、あるいは全国の皆さんから応援していただいた感謝の気持ちを、他の被災地で苦しんでいる皆さんに、山古志の希望の光として届けていこうではありませんか。
長岡市はこれまでと同様に全力を尽くし、復興の灯となるように皆さんと一緒に歩んでまいりたいと思います。
木籠の水没家屋の保存、中山隧道の保全、錦鯉を中心とする山古志の産業の振興など、全力で取り組んでいく中で、他の被災地にしっかりとしたメッセージを届けていくことが、これからも皆さんと一緒に歩んでいく私の強い決意でございます。

最後に、本日お集まりの皆様に心から感謝を申し上げ、私の心からの言葉といたします。11年間、どうもありがとうございました。